のりのりてくてく
~ 成富兵庫茂安公誕生之地 ~
2007年12月1日
成富兵庫茂安は佐賀鍋島藩の武将として戦場で活躍したのち佐賀県内の治水事業を手掛け、水害などを防ぐと共に農業用水の確保に努めました。佐賀市鍋島町の嘉瀬川の堤防に誕生之地の碑があります。
佐賀市国道34号線北部バイパスの佐賀大学医学部入口交差点から佐賀大学医学部正門を通り過ぎ、渡瀬橋そばの「嘉瀬川リバーサイドゴルフ場」方向へ向かいます。
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登り坂になって堤防上へ上がります。坂下に車が駐車できます。堤防に上がらず脇の道を行っても誕生之地の碑に行けます。 |
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信号機があって左に行くと医学部西門(裏門)へ、直進すると渡瀬橋を渡って佐賀市大和町方向へ行けます。左折します。 |
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信号機から佐賀大学医学部西門(裏門)(鍋島町森田交差点)方向へ 150m 程の所に堤防下へ降りる小道があります。 |
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途中に「成富兵庫茂安公誕生之地」の碑があります。 |
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碑文
成富兵庫茂安公は、成富甲斐守信種の次男として永禄三年(1560)佐賀市鍋島町増田に生まれ、幼名を千代法師丸といい、のち鍋島直茂の一字を与えられて兵庫助茂安と改めた。公は資性 沈勇 放胆であり、膂力衆に秀で武術に長じていた。元亀元年(1570)の今山陣には、父のあとを追って戦場に赴き平然として戦さの有様を眺めていたので、人を驚かしたという。時に十一才。竜造寺隆信、鍋島直茂、勝茂に仕え各地に転戦すること二十余回、大いに戦功があって勇名を馳せた。天正十五年豊臣秀吉の薩摩攻めに従い、また天草攻めには、加藤清正と共に小西行長を援けるなど、秀吉をはじめ諸将にその名を知られた。朝鮮の役、伏見城攻め、伊勢阿濃津城攻め、また関ヶ原役のときの鍋島藩の去就、柳河攻めなど戦場と帷幄において功績は抜群であり藩きっての武将であった 公はまた土木築城等にも優れた技能をもち大阪城 熊本城 名古屋城の築城には敏腕を発揮して功績を遺した。徳川家康が天下を治める頃には相つぐ戦と朝鮮遠征のため藩の財政は窮乏を極めた。公は、これを見るにしのびず藩の財政建てなおしには河川を治め農業を振興する以外にはない事に着目し、四十一才からの半生を治水事業に心魂を傾けた。その治水土工は、規模壮大にして精巧緻密であり石井樋構築をはじめ、多布施川、市の江川 横落水道を堀り、更に三養基郡、小城郡、杵島郡、にも進み、その遺業二十四ヶ所に及び 藩内のかんがい網は画期的に整備され、今日世人の嘆賞するところである。このようにして、佐賀城下市民の水は三百年間確保され、今日の佐賀農業発展の基礎を築いた大恩人というべきである。晩年 佐賀郡大和町春日尼寺築山に閑居され、寛永十一年(1634)九月十八日 七十五才で死した。ここに茂安公誕生四百年を記念し、地元をはじめ有志相集り生誕の地に碑を建て、長く公の徳を景仰し、かつその功を顕彰する次第である。
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